2012年9月4日火曜日

時を食べる

このブログを開く時、タイトルはすぐに決まった…「時を食べる」と…何故、名古屋の町中からやってきて小原村で暮らしたかったのか?答えは小原は<和む(なごむ)>から、それが決定的な理由だ。
これを書きながら、ふと「和む」の漢字の意味を知りたくなったので、少し遠回りをしてみよう、きっと何か面白いところへ出るような気がする。「和」の意味としては<口>であり、ノギヘンの方は象形文字で黄河流域の主食であった栗あわが穂を垂れている様ということである。僕なりの勝手なイメージだとようは「食えてる」ということになる。
確かに「食えてなければ…」和むことはないし、むしろイライラする情況になるだろう。「和む」ことは食えてることが前提だということにして先に進もう…面白い遠回りが出来た…。
何日か前、以前犬と散歩に出かけた時知り合った土屋さんというおじさんから電話があり「もう新米が取れるけど、前の米があるがいらないか?」という…「いいんですか?頂きます〜やった!」ということでお米を30キロもらった。
また、犬と散歩から帰って来ると、土間の踏み板の上によくナスやキュウリ、ダイコン、タマネギ等の野菜が置いてあったりする…これは村のおばさん(心当たりは2人)が置いて行ってくれたらしい。
たまには「おこわ作ったけど食べる…」とか「ゴウヤの佃煮食べる」とか「ナスの漬け物…」とか食卓の贅沢な一品を持って来てくれる。
また、春の山菜シーズン犬と山へ散歩に行けば帰りには抱えるほどの山菜がいっしょだ。
この4年、僕の実験である月10万円の暮らしは完璧にクリアしているどころか、誰が家に遊びにきても「竹ちゃん、めちゃくちゃ贅沢」と言って帰って行く。
「エッヘン、金持ちより<時間持ち>」とうらやましがらせて帰す、
これが僕の作戦…「君も時間持ちになったら…」
街の暮らしでは「食えない」ということに大きな不安を持たねばならない、田舎では「なんとか食える」から始められる。このスタートラインの違いが<和み>につながってくる。
還暦記念に廃材をもらって8万円で作った「東屋」、高床式で材料の木に一本一本思い入れをもって感性させた空間からいちばん
和むフレームからの写真を見て下さい。



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